心に光を灯す【サット・サンガ】スヴァーミー・シヴァーナンダの教えから得た2026年5月の学びと次回のご案内


夏至を過ぎました。

これから夏本番ですが、日が短くなっていくなんて、ちょっと変な感じがします。

姫之湯教室は紫陽花が綺麗に咲いています。

この紫陽花は私の身長より高くなりました。

最近はちょっと窮屈そうな感じもします。花の終わり頃には剪定が必要ですね。

また、この紫陽花を分けてくださったAさんから、今年は大きくならない紫陽花をいただいたので、来年が楽しみです。

植物が日当たりや水、土の影響を受けながら育つように、私たちの心もまた、何に触れ、誰と共に過ごすかによって少しずつ形づくられていきます。

だからこそ、良い言葉や教えに触れる時間は大切なのだと感じます。

Yoga Bijaのサット・サンガでは、聖者に直接お会いすることはできませんが、スヴァーミー・シヴァーナンダさんの残してくださった言葉に触れながら、共に学ぶ時間を大切にしています。

以下に、月に一度のサット・サンガのお知らせと先月の学びをまとめました。

*サット・サンガは初めての方もご参加いただけます
*参加費無料です

2026年6月〜12月 開催のご案内

日時: 2026年6月27日(土)17時~18時30分 

場所: オンライン(Zoom使用)または姫之湯教室

読む書籍: スヴァーミー・シヴァーナンダ著『ヨーガとこころの科学』

第16章 思考が世界をつくる 【想像の中に現実の宇宙はある】からです。 

参加費: 無料

持ち物: 『ヨーガとこころの科学』(お持ちでない方は初回のみ本の貸出できます)・筆記用具

参加方法: 事前予約制。

ご予約は、24時間前までにお申込みください。

LINE や下記記載のメールやお電話、予約サイトからお申込みいただけます。

キャンセルの時もご連絡お願いします。

●LINE

友だち追加

●メール:ylsbija@gmail.com

●電話:090-7912-2282

今後のスケジュール(基本第4土曜日開催/12月のみ第2土曜日開催です)

▶︎ 7月25日/8月22日/9月26日/10月24日/11月28日 /12月12日

2026年5月参加メンバー各自の学びのまとめ

前回のサット・サンガの記事はこちらです。

加藤のまとめは今日から毎日少しずつこのページで更新し続けますので、ぜひチェックくださいね。

5月は【思考、あらゆるものの起源】から読み始めました。

◉みさき

【思考、あらゆるものの起源】

普段当たり前に感じている世界も、〝私〟という存在も、思考によって形づくられているという考えが印象的でした。また「空」「無」という表現も気になりました。ただ 何もないこと ではなくて、自分が実体だと思い込んでる〝私〟に気づきを与えようとしてる言葉なのかも・・とも感じました。

【すべては「ここ」と「今」だけ】

神にとっては過去も未来もない〟

この一文が印象的でした。

そしてこれは究極のゴールなのかなと思いました。

過去も未来もなく、すべてが今。今この瞬間に起きていることを、そのまま受け取る。私は過去も未来も今も当たり前のように考えてしまうけど、これがダメとかでなく、過去や未来を思っている自分に気づく、といった視点を大切にしたいと思います。

【神と幻(マーヤー)の力】

すべての印象は幻(マーヤー)の中に浮いている

〝浮いている〟この言葉も何か意味深な感じを抱きました。

浮遊しているのかな。

印象をサムスカーラ(潜在意識)と捉えて読んでみたり。

あと

神は沈黙も傍観者

という部分も面白いなと思いました。

神が何かをしてくれると考えがち。ただ見ている点が瞑想に近いのかなとも思いました。

◉たえこ

今回の章は、理解しようとする気持ちをあきらめさせてくれた章でした。

わかるようなわからないようなところでした。

ま、それでいいかな、途中から参加させていただいてるんだから、しょうがない!参加することに意義がある!と自分に言い聞かせて、考えるな、感じろ、をしていました。

ようこさんが中学生の中の小学生みたいとおっしゃっていましたが、それなら、私は、お姉さんの習い事に何もわからずについて行ってるおチビちゃんだなー、と思って聞いていた会でした!

◉みずき

心が考えることをやめた時、物質世界は消えいいあらわし難い歓びだけが存在する。しかし心が再び考え始めると、世界が現れ苦悩も始まる。

心が考えをやめる時=瞑想をしている時、アーサナで身体と対話している時

考える「私」は瞑想によって「無」となり消えてなくなり

深い瞑想サマーディによって自慢げな心を止滅させることができると受けとった。

神にとって

すべてが「現在」のみである。

すべての場所が「ここ」であり、すべての時間が「今」である。

ハッとしました!

◉ようこ

思考、心についてを文中からピックアップして考えました。

世界はひたすら思考、人の思いだけなのである

心が考えることをやめた時物質世界は消え、言い表し難い喜びだけが存在する

心は考えの集まりにしかすぎない

個々の心は事物を虚構の中で見ているにすぎない

と言うことは私の頭の中の限りなく続くおしゃべりは、無意味な事になる。

全ての場所が「ここ」であり、全ての時間が「今」である

この事が一番大切だと思います。

実際この事に助けられた事はたくさんあります。

◉なおみ

【思考、あらゆるものの起源】

我々の周囲に存在する物質世界のあらゆるものは、まず「人の考え」の中で創造される。…つまるところ、世界はひたすら思考、人の思いだけなのである。

ズバリそう断定されて、そうだよなー!と納得しました。思考したもの、考えたことの中で物質世界が作られていく。

そして、

心が考えることをやめた時、物質世界は消え、いいあらわし難い歓びだけが存在する。しかし心が再び考え始めると、世界が現われ苦悩も始まる。心の性質について真剣に絶え間なく考えれば、実際何もない。すべては「空」だとわかるであ ろう。心は消え去ってしまう。心は考えの集まりにしかすぎない。「私」という考えがすべての考え の根本である。しかし、この「私」という主張は間違った考えであり、実在ではない。考えの元が 「無」と消えてなくなれば、自慢げな心はどこに存在しうるのか。

考えるのをやめたとき、”私”というエゴを無くしたとき、心が消え去り、すべてが「空」だとわかるのだと。

瞑想しているときには身体の輪郭がなくなるような感覚があったり、周りと一体になるような感覚もありますが、それを見ながら言葉で考えている自分もいたり。

やはり心の考えを止めるために、繰り返しコツコツ瞑想をやっていきたいと思いました。

すべてはここと今だけ

神にとっては過去も未来もない。すべてが「現在」のみである。神にとっては近くも遠くも ない。すべての場所が「ここ」であり、すべての時間が「今」である。

過去や未来に心を捉われてしまうと不安や後悔、執着が出てきてしまう。

ちょうど最近聞いた話で「明日は来ない。明日になったらそれは、また”今日”になる」ということを言っていました。

私たちは、今このときにしか生きられない、行動を変えられるのは今しかない。

改めて”今”を大切にしていきたいと思いました

◉みきこ

印象に残ったフレーズは、

すべては「空」とわかるであろう。

というところだった。

私達が形として認識しているものも実はそこにない。

「私」という考え方が全ての考え方の根本であり、これが世界を作り出している。

「私」が作り出されているものであり実はそこにないのだと気づくことで、人は永遠の存在であるというところへ到達し、心がブラフマンの中に融合し、無限の至福を感じる。そこに物質はなく、「空」なのだと思った。

宇宙は個人の心が創造したものではなく、大宇宙心が一つにまとまって物質化したもの。

これは神の意志の結果であり、人の心の働きを通じてあたかも実在するもののように見える。

神にとっての時間は「今」のみ。

神は全知全能であり、自らの創造物について熟知している。

宇宙の創造の仕組みが論理的に説明されていて、そうなのか。。。と新たな概念が自分の中に入った。

◉かとう

【思考、あらゆるものの起源】

我々の周囲に存在する物質世界のあらゆるものは、まず「人の考え」の中で創造される。そしてその考えが形となるのである。

世界はひたすら思考、人の思いだけなのである。

心の中の思考によって感知されたものが、現実の物体という形をとるのである。

こんなふうに、ここではあらゆる言葉で私たちの思考でこの世の中は形づくられていることが説かれています。

私自身はまだそこまで深く理解できているわけではありませんが、自分の心が純粋な時に見える世界と、自分の心が荒んでいる時に見える世界が違うように、私たちの思考ひとつで見え方が変わっていくことが実感としてあります。

心が考えることをやめた時、物質世界は消え、いいあらわし難い歓びだけが存在する。しかし心が再び考え始めると、世界が現われ苦悩も始まる。

と書かれています。

ヴェーダーンタやヨーガ哲学を知らないと、きっとびっくりしてしまうのではないでしょうか?

私には、まるで「考えることをやめると幸せになれるよ」「考え始めると苦悩が始まるよ」と言われているようにも感じられます。

そういえば、以前ヨーガスヴァールーパナンダジーも「考えずに、感じなさい」とおっしゃっていました。

あれこれ頭でこねくり回して考えたりせず、まずはそのまま感じてみなさい、そこにジャッジをしないことで新たな思考も生まないようにとおっしゃっているような気がします。

真の偉大なる自己、アートマンは幻影ではない、真の実在だ。

ここはアートマンについて書かれています。

少しわかりにくいかな?と思うので アートマンについてヨーガ事典から引用すると

我。自我。個我。真我。自己。

「呼吸する」という動詞から派生した言葉で、元来は「呼吸するもの」「気息」「生命」を意味し、またそれらによって生きている「身体」「自己」のことを指した。

哲学的な概念においては「真実の自己」「霊魂」を表し、宇宙的・客観的な原理であるブラフマンに対し、アートマンは個人的・主観的な原理を表す。ヴェーダーン夕哲学ではこのアートマンを認識し、ブラフマンとアートマンが同一のものであると直感することが中心的な課題となる。ウパニシャッド文献には梵我一知の思想をいろいろな譬えや親子師弟の対話を通して説いている。

ヴェータ時代のインド人は、人は死後、地上での功により天上に生まれ、先祖たちと一緒に幸福に暮らせると楽天的に考えていた。しかし、やがて功徳が尽きてしままえば天上での楽な生活も終わり、再び地上に生まれ昔に満ちた人生を送らなけれたはならないと考えられ、やがてはこの永遠に続く輪廻転生の束縛から逃れることがこ最大の課題になった。つまり今までのような現世利益を願うバラモンの祭祀から、輸題からの解説による水道のならきへと関心が移ったわけである。これはその後のインドの宗教に非常に大きな影響を与える結果となり、それから後に現れた仏教にしろヨーガにしろ、一時的な現世利益を願うものではなく、解脱を求めるタイプの宗教に属するものであった。

バラモンの祭式から離れ輪廻からの自由を願った人々は、まず自己の本質を知らねばならないと考え、自身の内部へと深い注意を向けるようになった。そして深い洞察の結果、そこに発見したものは永遠不変なる何かであった。一度この何かを直感すると今までにはない心の安らぎを覚えた。人々はそれをアートマンと名付けたそして、このアートマンこそ太古から言われているブラフマンに他ならないことを直感した。自己の内部に深く沈静して行った結果、行き着いたのは暗く殻に閉じこもった自身などではなく、不安も恐れもない宇宙的な広がりを持った何とも広々とした心境であり、自分自身とこの宇宙とが一体(梵我一如)になったと実感するものであった。

少し長いのですが、『ヨーガ事典』ではその後にもまだヴェーダーンタの哲学者による解説が続きます。

そして、長いけれどここで短くまとめてしまうと本当の理解ができなくて、学びを続けていく時にまた「?」「わからない・・・」になりそうなので、長くてわかりにくくても、何回でも読んで噛み締めてこそ!わかる時がくると思います。

一度で全部を理解しなくてもいいんじゃないでしょうか?その代わり繰り返しなさいというのがヨーガの学びの大切なところだと思います。

心の性質について真剣に絶え間なく考えれば、実際何もない。すべては「空」だとわかるであろう。心は消え去ってしまう。心は考えの集まりにしかすぎない。

「空」について上手く説明ができないと思っていたのですが、ポッドキャストでお坊さんの話を聞いていた時に、その方の説明がなんとなくふわ〜っとしていたものをわかりやすくしてくれているなと思ったんだけど、それを誰かに説明しようとすると上手くできずにいました。その方のおっしゃる空は「ある事物に対して等距離にある真ん中をさす。いわゆる中道」みたいなニュアンスでした。なので、捉えづらいけどある、そうゆうものが「空」なのかな?と言えば、そうなのかもしれない・・・みたいな禅問答みたいになってしまいます。

そしてお坊さんの解説の中でシューニャという言葉も出てきました、ここではシヴァーナンダさんも心の性質は「実際何もない」=全て「空」と言っている。と思ってまた【シューニャ】について『ヨーガ事典』を開くと

空。うつろ。空虚。(インド数学の)ゼロ。捨てられた。非存在。大乗仏教の般若系統の根本的な思想で、存在するものはすべて因縁によって生じたものであり、永遠不滅の固定的な実体はないという考え。

ここで書かれている説明だと、仏教も似ていて、固定的な実体はないということになるので、何もないをわかろうとしなくてもいいんじゃないか?と思えてきました。

空は空という感じです。

中道も説明はできますが、それ自体を固定した一つのものとして捉えることはできないのかもしれません。

そして、空といえば、五大元素のうちの一つでした。

「地、水、火、風、空」のこの五つがこの世の中の全て万物を構成していると考えます。

でも、文脈から見るとシューニャに近い気がしますが、今の時点ではここまでの理解になります。

今後を楽しみにしていきます。

今月はAdapt(適応する)をテーマに行っていて、その後に続くAdjust(調整する)、Accommodate(受け入れる、包み込む)がAdapt(適応する)の実践に必要なんだなって感じているんですが、今の理解はここまでだけど、新たな理解が加わったら調整して、間違った理解をしていたことも受け入れて、それがあったから学びが深まったと肯定的に捉えたいです。

間違ったからダメで、理解できたからマルと言う考えを持たないのがヨーガのいいところですよね。

私たちが学ぶ過程は何一つとっても無駄なことはないんだな〜と思えてきます。

「私」という考えがすべての考えの根本である。しかし、この「私」という主張は間違った考えであり、実在ではない。考えの元が「無」と消えてなくなれば、自慢げな心はどこに存在しうるのか。

「私」という考えがすべての考えの根本である、とシヴァーナンダさんは仰っています。

サーンキヤ(二元論)ではこの世の中はプルシャとプラクリティの二つがあり、プラクリティのバランス(グナ)が乱れることで世界が展開すると考えます。

ここでいう「私」は、本来の純粋意識としての自己のことではなく、心の一つである「私」という感覚(アハンカーラ/エゴ)」のことだと考えられます。

私たちは本来の自己(プルシャ)ではないものを「私」と思い込み、その結果として思考や感覚、身体と同一化してしまうことがあります。

この「私」という思いは、見誤りの出発点にもなると考えられます。

なので瞑想やヨーガによって、私という思いもなくし、最終的にはもともとは二元っだったので見分けがつくようになって、よく引かれる例えですが、映画(プラクリティ)を見ている観客が本来の自己(プルシャ)なんですが、「私」という思い(エゴ)があると映画の主人公になってしまっている状態なので、きちんと見分けていきたいです。

万人の心に最初に起きる考えは「私」である。しかし最後に、人は永遠の存在であるという思いに到達し、そして心がブラフマンの中に融合して無限の至福を感じる。

こちらはヴェーダーンタ的な解説で、先ほどのアートマンの説明のように、私と大いなるものが同じと考える梵我一如です。

ヴェーダーンタではよく、海は塩と水が一緒で分けられないようにという説明をすることがありますが、「私」と言う想いエゴが強ければ、大いなるものと最初からひとつだったと言うことに気づけなくなる思います。

難しいけれどそんな直観を得る為には繰り返し学ぶことが大切なようです。

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最後に

今回は少し難しい部分でしたが、それでもみんなで読むと、「わからないからパス!」とはならず、しっかりと向かい合って読める時間になるのが読書会のいいところだと思いました。

ぜひ、一緒にわからないことを知ったふうにしないで、「わからないね」でも「理解しようと努めようね」と、コツコツ歩みを続けましょう。

Yoga Bija

加藤

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