【サット・サンガ】アサンブプラギャータ・サマーディを経験した後
春の天気は変わりやすいと言いますが、春分の日は雷が鳴らなかったくらいで、晴れ、曇り、雨、強風、そして雹まで降りました。
身体もびっくりですよね。
自分の体調は自分でととのえるしかないので、ぜひヨーガを上手く使ってくださいね。
今週末、土曜日はサット・サンガ開催です。
サット・サンガは私たちの成長には欠かせないものだと言われていて、インド、リシケーシ、シヴァーナンダ ・アーシュラムでは毎晩開催されているものです。
ビージャでは月に一度!
ぜひ時間を作ってご参加ください。
サット・サンガの内容
ビージャのサット・サンガはオンラインで無料で行っています。
瞑想のヨーガの教典『ヨーガ・スートラ』をわかりやすく解説した本、『パタンジャリ・ヨーガの実践』を読んでいます。
瞑想に興味がある方、ヨーガを深めたい方、どなたでも参加できる集まりです。
内容は、始まりのマントラを唱えるところからスタートします。
その後、参加者で『パタンジャリ・ヨーガの実践』を意見交換しながら読み進めています。
今回でもう読み終えるので、本をお持ちでない方も奮ってご参加くださいね。
Zoomは便利ですね。
画面でシェアできるので内容も理解できると思います。
進行役も順番で行っていきます。
本の小見出しで区切り、順番に読み進めていきます。
ひとりが終えたところで、感想を話し合います。
そして最後も終わりのマントラを唱えて終わります。
先月から最終章の8章【サマーディの結果】に入りました。
もし時間が余ったら、一緒に瞑想しましょう。
そして、改めてお知らせしますが、4月からは『ヨーガとこころの科学』を読みます♪
シヴァーナンダさんの本です♪
Shanti Yoga Clubのマキ先生のオンラインクラスに参加しているのですが、この本を訳された小山芙美子先生とお話しする機会がありました。
お二人の先生にわからない部分のサポートをお願いしてみたら、快く引き受けてくださいました。
次からのサット・サンガもとても楽しみです。
2月の振り返り/アサンプラギャータ・サマーディを経験した後、記録
2月は【合一】から読み始めました。
【合一】は第7章の最後の部分でした。
続いて8章は【サマーディの結果】です。
まず【アサンプラギャータ・サマーディを経験した後】について書かれています。
自分の意志により肉体を捨てる決断をしたヨーギーは、決断から21日後にこの世を去る。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
私も別の本で同じ内容のことを読んだことがありますが、ここではそうでない実例も書かれていて、その中には釈迦やイエス、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダの名前も見られました。
さらに学者の意見や、それに反するラーマクリシュナの反論なども書かれています。
学者の意見は
塩人形にたとえて、「海水にとけて、海と一体になったものが、ふたたび元の塩人形にもどるということはない。それは非論理的である」という主張です。最高のサマーディに入ると、(塩人形が海と合し、溶けてなくなるように)個人の魂は無限のブラフマンと合ーし、自我は消滅します。「一度ブラフマンにとけこんだアートマンが、ふたたび自我を形成するのは不可能だ」というこの主張の論理的根拠はかなり強固です。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
そして、ラーマクリシュナの反論は、シャンカラーチャーリヤとパタンジャリを例にあげています。
シャンカラーチャーリヤは、ウパニシャッドや『ブラフマ・スートラ』の注釈書などたくさんの著作や、美しい賛歌をのこし、仏教学者との議論では彼らを論破して、ヒンドゥ哲学をひろめた聖者です。さらにインド各地に僧院を建て、宗派を創設するなど多くの偉業を成し遂げました。またパタンジャリも、アサンプラギャータ・サマーディを経験してからこの世にもどってきたはずです。そうでなければ『ヨーガ・スートラ』の内容を書くことはできなかったでしょう。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
ただ、パタンジャリについては成瀬貴良先生の『いまに生きる インドの叡智』の中で
インドではその作品がどれだけ古来からの伝統を持っているかが問題にされる事はあっても、誰が書いたかと言う作者の名前はあまり重要視されないと言われています。これは『ヨーガ・スートラ』にも言えることです。よくパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』と呼ばれますが、決してパタンジャリという人物がこの教典の全編を表したわけではありません。しかしパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』と言うぐらいですから、何らかの関わりを持っていた事は確かなようです。
パタンジャリという名前は、一般にはサンスクリット語文法の注釈書『マハー・パーシャ』を著した紀元前、2世紀頃の大文法家の名前として知られています。ただ、『ヨーガ・スートラ』と、紀元前2世紀ごろに活躍したパタンジャリでは、600年以上もの時代のずれと言う決定的な矛盾が出てきてしまいます。
『いまに生きる インドの叡智』成瀬貴良
成瀬先生は三つの説があると言います。
①パタンジャリ編纂説
それまでのヨーガや実習に関する諸々の説に、文法家でパタンジャリがヨーガに関する自らの意見や体験をまとめて編纂したという考えです。つまり、パタンジャリは編纂者であるという説です。
②一部を書いた説
『ヨーガ・スートラ』の中では、第2章28節から第3章55節までが最も古い部分と言われていますが、この部分こそ、紀元前の大文法家パタンジャリの作であると主張するハウエルという学者の意見もあります。そして、この部分を書い た大文法家パタンジャリの名前にちなんでパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』と呼ばれていると言うのです。これな らば、前のような時代の問題は解決できます。
③別人パタンジャリ説
文法家パタンジャリとは同性別人で、たまたま『ヨーガ・スートラ』を編纂したのは、パタンジャリと言う人物だったと言う説です。
成瀬先生がこの本を書かれた1999年の段階ではどれが真実なのかわかっていないようです。
これもインド哲学を学ぶ面白さの一つですね。
続いて【アサンプラギャータ・サマーディの記録】について
ここには『スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯』にある記録から紹介されていました。
「いつもどおりに瞑想していると、突然、後頭部にランプが灯ったかのように感じられた。光はますます輝きを増し、とうとう破裂した。
ナレンはその光に圧倒されて意識を失った。しばらくして通常の意識が回復してくると、頭以外の体の部分を感じられなくなっていた。
同じ部屋で瞑想していた兄弟弟子ゴーパール(Gopal)に、興奮した声で言った。「わたしの体はどこだ?」ゴーパールが答えた。「どうした、ナレン、ここにあるじゃないか。わからないのか?」ナレンが死んでしまうのではないかと恐れたゴーパールは、シュリー・ラーマクリシュナの部屋に走った。おだやかだが厳しいムードにあった師は、起こったことに明らかにお気づきだった。ゴーパールの話を聞いた師がおっしゃった。「しばらくそのまま放っておこう。サマーディが欲しいと、ナレンは長い間せがんできたのだからね」しばらくの間ナレンは意識を失っていた。通常の意識状態にもどると、言いようのない平安に浸っていた」
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
続きがあります。
アサンプラギャータ・サマーディからに戻ってくる様子です。
その過程ではまず自我意識(「私が」「私の」という意識)がもどり、次に記憶がもどりました。ですがこの時点ではまだ肉体意識がもどっていなかったので、会話の感覚はもどっていたナレンは「私の足はどこだ?手はどこだ?」と言ったのです。ゴーパールは手や足をさすりながら「ナレン、君の足はここにあるよ、手はここだよ」と答えたそうです。
このように、いきなりすべてがもどってくるのではなく、自我意識、記憶、感覚.そして最後に肉体意識というように、順番で徐々にもどってくるという記録は、たいへん興味深いことです。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
面白いですね。
サマーディに入られた時のこととは聞いてはいけないと思っていたので、こんな記録が残っているとは知りませんでした。
『奇跡の脳』に書かれていることと少し似ている部分もありました。
『奇跡の脳』には、左脳が梗塞して右脳だけになると体の輪郭がなくなるというようなことが書かれていました。
ヴィヴェーカーナンダさんは頭の感覚だけが残っている状態です。
その他の体感覚はなく、戻ってきた時には平安だったというから、シャーンティな感覚というでしょうか?
アーサナクラスの後は身体が浄化されて気持ちいいですが、それ以上の平安な感覚なんだと想像します。
体感したことがないので、何ともいえませんし、論じることではないと言われるので、「そうなんだ」で終えておきます。
また、戻ってくる順番があることにも驚きです。
サーンキヤの転変のようです。
二元だったのが25の原理に転変していくようです。
また、アサンプラギャータ・サマーディを1回でも経験する人は非常に稀なのに、それを2回、3回と経験できる人はさらに稀で、ラーマクリシュナは、日に何回もサマーディに浸っていたと書かれていました。
サマーディに浸るって表現も凄いですが、客観的にみて、そんなふうに見えたんですね。
本当にラーマクリシュナの話はどれもこれも驚きです。
次は【ジーヴァンムクタ】です。
まずは語句の解説が書かれています。
まとめますと
●ジーヴァンムクティ
アサンプラギャータ・サマーディからもどってきた状態
●ジーヴァンムクタ
アサンプラギャータ・サマーディからもどってきた人
●ヴィデーハ・ムクティ
霊的実践をかさねて、神の恩寵により、死後に解脱する
●ムクティ
東縛からの解放
束縛とは、肉体の鎖・感覚の鎖・心の鎖・知性の鎖・記憶の鎖・自我の鎖・3つのグナ(サットワ、ラジャス、タマス)の鎖・サムスカーラの鎖・カルマの鎖、これらすべての鎖のことです。
最高の幸福、最高の平安、最高の力、最高の知識への到達
続いて【ジーヴァンムクタのさまざまな表現】に入ります。
さまざまな表現とあるように、3つの例があげられていてどれも面白いです。
ひとつ目は 「永遠に自由であるはずのアートマンが、なぜマーヤーである肉体に束縛されているのだろうか?」
聖典を学んだ結果、「アートマンは、肉体に束縛されているという困難な状況でも解脱できるということを経験したかったから」という結論を得ました。これは「アートアンはみずから束縛を求めて肉体に入った」という、とてもユニークな説です。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
ふたつ目は、「最高のサマーディを得て、自我がなくなったアートマンが、ふたたび元の形にもどるというのは矛盾ではないか」という点について
これにはホーリー・マザーが「神はご自分の恩寵によって、ブラフマンにとけ込んだ個人の意識(魂)をブラフマンの大海から、ふたたび回収するのです」と答えています。
つまり、サマーディを得た人が自力でもどってくるのではなく、神の力が必要だということです。また、神がそうしてくれなければ、この世に、聖典の正しさを証明できる人も、人びとを導く人もいないことでしょう。海に入った塩人形でも、神の恩寵があれば、元の形になってもどってくることはできるのです。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
みっつ目は、ちょっと長いですが
高い壁がありました。壁のむこうからは、とても楽しそうな歌や音楽が聞こえ、明るい光ももれてきて、そこにはたいへん大きな喜びがあると想像できました。4人の友人が壁のむこう側に何があるのか見てみようと考えました。
1人が壁にのぼってむこう側の世界を目撃すると、彼はすぐに壁のむこうに飛びおりてしまいました。2人目も、3人目も、よじ登ってむこうを見ると、すぐに飛びおりてしまいました。4人目の人だけが、壁の上までのぼってむこう側の世界を見ても、むこうの世界に飛びおりたい衝動をかろうじておさえて、こちら側にもどり、壁のむこう側のようすをこちら側の人びとに伝えました。壁のむこう側の世界が「至福」であり、4番目の人がアサンプラギャータ・サマーディからもどったシーヴァンムクタです。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
わかりやすい例えですね。
シャンカラーチャーリヤが書いた『ヴィヴェーカチューダーマニ』(Vivekacidamani:最高の識別)というヒンドゥ教の聖典には、「シーヴァンムクタのしるし」があげられているそうです。
以前、インドへ行った時に『ヴィヴェーカチューダーマニ』のレクチャーを受けたことがあります。
英語の講義だったので、しっかりと理解できませんでしたが、あのてこのて、色々な論法で「あらゆるものが一つ」と解説されていたように記憶しています。
以下、引用です。
・知性が安定していて、たえず至福の状態にあり、宇宙のできごとを記憶していない。
・いつもブラフマンと一体であり、世俗的なことに興味をもたず、欲望がない。
・解脱の願望がなく、体をもちながら体意識がなく、生死について心配しない。
・自分の体を影であるかのように考え、自己と同一視しない。
・過去のことについて考えず、未来について心配せず、現在について無関心である。
・どんなものに対しても好き嫌いの感情を持たず、何を贈られても喜びも悲しみもしない。
・いつも絶対の至福を味わっていて、体・感覚・心に無関心である。
・体・感覚・住居・親族・義務などについて、「私」意識や「私の」意識がない。
・自分の本性とブラフマンの本性が同一であると理解し、すべての束縛から解放されている。
・個人的アートマンとブラフマン、ブラフマンと宇宙とを区別せず、すべてを同等に見る。
・善人から尊敬されても、悪人から批判されても、まったく気にしない。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
さらに、上記の解説として
「過去・現在・未来について無関心」なのは、(タマスに似ているように思うかもしれませんが、もちろんジーヴァンムクタとタマス的な人はまったく違います。時には両極端のものが同じように見えることがあるので、誤解をしないように気をつけてください。「アートマンとブラフマン、ブラフマンと宇宙を区別しない」のは、真の知識を持っているからです。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
と書かれていました。
ジーヴァンムクタとタマスを誤解しやすそうですね。
気をつけたいです。
続いて【デーハスタ アピナ デーハスタ】です。
ジーヴァンムクタには、体も感覚も心もありますが、それらを超越しています。
デーハスタ アピ ナ デーハスタ
“Dehasthah api na dehasthah”
肉体の中にいながら、肉体の中にいない
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
これは、この本に書かれていますが、身体の感覚はリアルで、これが自分と思いやすいです。
瞑想をするには集中が大切ですが、身体の感覚に引っ張られてしまいます。
ハタ・ヨーガして浄化されると比較的集中がしやすくなりますが、それでもまだまだ長時間の集中は難しいです。
そう考えると、ラージャ・ヨーガ的な考えのように、この身体が厄介に思えてきたり、とってもリアルな感覚なので、この身体が本来の自分と間違ってしまいやすいし、エゴが出てきて、この身体に心を縛りつけます。
そう思うと、「身体はどうでもいいな。」と思ってしまい、ハタ・ヨーガはエゴを強くするのではないかな?なんて思っていましたが、この後に
シーヴァンムクタにとって、自分の体は「あってもいい、なくてもいい、なくなってもいい」。ものなのです。それが「デーハスタアピナデーハスタ」です。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
と、書かれていました。
私に足りなかったのは、「あってもいい」と思うことでした。
さらに
これは理解しにくいことかもしれませんが、このアイディアを聞いて頭に入ったら、少しでもイメージしてみましょう。というのは、「体を持ちながら、体の中にいない」(デーハスタ アピ ナ デーハスタ)という状態を、頭で考えるだけでも、一時的かもしれませんが、肉体意識を弱めて幸せになる、ある程度の効果があるのです。そのためにはまず霊的意識に集中し、熟考するための時間を持つことが必要です。
『パタンジャリ・ヨーガの実践』スワーミー・メーダサーナンダ
と、書かれています。
先日のアーサナクラスで、マキ先生が「チダーナンダジーも仰っていたよ。」と伝えてくださったのが、「方法は色々あるけれど、みんな幸せのゴールに向かっている。山を登るのに色々な方法があるのと一緒」というような内容のお話しでした。
成瀬貴良先生からも何度も聞いているけど、ほんと、触れていないとすぐに忘れてしまうんですよね。
そんな意味でもサット・サンガは大切です。
ぜひ、気楽にご参加ください。
3月は【ジーヴァンムクタの実例】からになります。
2024年3月のサット・サンガの日程
サット・サンガは基本第4週の土曜日開催です。(*12月のみ第2週の土曜日開催)
3月は23日が開催日です。(*2024年4月は27日です。)
17時にスタートし、18時30分までの90分間行います。
今月は時間が余ったら瞑想しましょう♪
Zoomで行うので準備をお願いします。(*わからない時は聞いてくださいね)
ご予約と締切について
ご予約はLINEでもできるようになりました。
メールやお電話、予約サイトで受付ていますので、お好きな方法をお選びくださいね。
メール:ylsbija@gmail.com
お電話:09079122282(加藤)
お申込みいただいた方にZoomの案内をしますので、22日までにご案内が届かない方は、お手数ですが上記より連絡ください。
締切は3月22日(金)19時までになります。
直前まではっきりしないという場合はその旨お知らせくださいね。
お申し込みお待ちしています。
最後に
お知らせなど、日々の暮らしで見つけた気づきなどInstagramで発信しています。
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また、いつでもヨーガに触れられるように X( 旧 Twitter)ものんびりやっています。
こちらは、読んだ本からの気づきやヨーガの聖者やスヴァーミーのお話しを紹介しています。
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