心に光を灯す【サット・サンガ】スヴァーミー・シヴァーナンダの教えから得た2026年8月の学びと次回のご案内
今日は十五夜さん。

日本人は満月より、少し欠けているお月様に風情を感じるのだとか?
そんな繊細な感性を持っていると、今の時代のスピードに疲れたりすることはありませんか?
そんな疲れはそのままにせず、元に戻す工夫をしていきたいですね。
Yoga Bijaで行なっているサット・サンガがそんなお手伝いができるといいな〜って思っています。
間際のお知らせになりましたが、明日、9月26日(土)17:00〜開催です。
以下に、月に一度のサット・サンガのお知らせと先月の学びをまとめました。
*サット・サンガはヨーガに興味がある方ならぜひご参加くださいね。
*参加費無料です
2026年9月〜2027年3月 開催のご案内
日時: 2026年9月26日(土)17時~18時30分
場所: オンライン(Zoom使用)または姫之湯教室
読む書籍: スヴァーミー・シヴァーナンダ著『ヨーガとこころの科学』
第十八章 思考のパワー 【思考は生きたカ】からです
参加費: 無料
持ち物: 『ヨーガとこころの科学』(お持ちでない方は初回のみ本の貸出できます)・筆記用具
参加方法: 事前予約制。
ご予約は、24時間前までにお申込みください。
LINE や下記記載のメールやお電話、予約サイトからお申込みいただけます。
キャンセルの時もご連絡お願いします。
●LINE

●メール:ylsbija@gmail.com
●電話:090-7912-2282
今後のスケジュール(基本第4土曜日開催/12月のみ第2土曜日開催です)
▶︎ 次回は 10月24日/11月28日 /12月12日/2027年1月23日/2月27日/3月27日
2026年8月参加メンバー各自の学びのまとめ
第17章 無知とエゴイズム【無知】から読み進めました。
◉みさき
【無知】
心そのものは無知がつくったものである。
無知がつくったんだ、と。心があって無知がつくられる、ではなく。
心が存在するかぎり、大小、高低、優劣、善悪など存在する。
という一文はすんなり理解ができました。比較できる、相対する二つのものを無くすことが幸せと平和。
無知は心に焼きついているので、ジャパやプラーナーヤーマ、サット・サンガで心を浄化する必要がある。ちょうど錆びついた銅を灰やタマリンドの粉で磨くように。
毎月行っているサット・サンガは、月に1回サビを落とす日なんだと思います。
【エゴ】
エゴについて考えたとき、
お金持ちになりたいとか、若々しくいたいとか、◯◯が欲しいとか、世の中にも日々の生活にも当たり前のように溢れていると感じます。それをエゴだ、と認識する人もいればしない人もいる。
エゴがなければ悩む必要もなく。でも、これがどんなに大変か。生きてる以上切っても切り離せない、そんな関係なのか。
私は仕事(働くこと)をエゴと発言したとき、それはダルマでは?と教えてもらい調べてみました。
エゴ→自分中心、執着生む、苦しみの原因
ダルマ→全体の調和、本来の役割、エゴからの解放
こうしてみると、ダルマ寄りだと思いました。
玉葱の皮をむいてくと、最後は無、ゼロになる。と分かりやすい例えがありました🧅
エゴも一層ずつ取り除いていけばすべてが消えて最後は無に到達する。これも日々の鍛錬、毎日意識して生活すれば少しずつ少しずつ消えていくのだと思いました。
「意識をする」「気づく」
継続したいです。
◉なおみ
心そのものは無知がつくったものであり、心が存在する限り、大小、高低、優劣、善悪などの比較するものが存在する。
心の想像と思考は心の無知のなせる業である、
とありました。
これまでも無知について出てきましたが、心が想像したり思考してしまうのは、すべて「無知」、真理の誤って捉えてしまっていることからきているのだと、改めて認識させられました。
そして、
心の思考から「エゴ」がつくられる。
エゴ自体は大したことないのだが影響力たるやすさまじいく、ブラフマンとその輝きを覆っている、
とありました。
エゴそのものは本来は大したことはない、ということはまた新しい気づきでした。
これもまた無知のためにエゴが肉欲と結びついてしまうことで、ブラフマンとその輝きを隠してしまっているのだ
と。
最後にはそのエゴの撲滅方法もありました。
それは知恵の火で燃やすこと、少しずつ気長に取り除くことが大切だ
とありました。
具体的な方法として
・カルマヨーガで献身的奉仕
・バクティヨーガで神に全てをゆだね、祈る
・ヴェーダーンタの知恵で克己
・「この、自分、私、というエゴの原因は何だろう」と繰り返し自問自答する
と挙げられており、各々が取り組みたいことを決めました。
私は、自問自答とカルマヨーガを挙げました。
カルマヨーガについては、難しいとされますが、まずはやってみようとすることで、カルマヨーガについて考える機会にもなるかと思いました。
また実践しながらカルマヨーガについての理解を深めていきたいと思います。
◉ようこ
今月も相変わらず難しかったです。
エゴについて
読んでも読んでもよく分からない。
P.104では”エゴ自体は大したことはない”と言っている。
それなのにP.105の最後では
エゴも一層ずつ取り除くことによって、すべてが消えて最後は無に到達する
とある。
生きていく中で自分軸を持つことは大事だと思う。
これもエゴに繋がるのか?
エゴイスティックな考えは良くないと思う。
エゴが頭を持ち上げて来た時、自問自答
しようと思います。
◉かとう
【無知】
心そのものは無知がつくったものである。惑わしに満ちているから、騙したり誘惑したりする。純粋な真理の探究で心の無知を除いてしまえば、心は宙に浮いてしまう。
心は無知が作ったものと書かれています。
無知とは(『ヨーガ事典』から)
①根本的な煩悩。迷い。真理に反する知恵。「ア」は否定を表し、「ヴィディヤー」は「智慧、知識、明」の意味。ヴェーダーンタ学派のある一派では、このアヴィディヤーのために、人はブラフマンとアートマンを別なものと考え、現象世界を実在のものであると見誤り、そのために苦悩していると説く。そして、このアウイディヤーから脱却し、真のヴィディヤーを得ることを説く。また、仏教でも十二因縁の第一番のものですべての苦しみの原因とされている。
アヴィディヤーは、「知らない」という消極的なものではなく、真理を間違ってとらえるという積極的な意味を持った過ち。
②「ヨーガ・スートラ」に説かれている五つの頃悩の一つ。五つとは1.アウィディヤー(無明)2. アスミター(我想)3.ラーガ(貧愛)4.ドヴェーシャ(憎悪)5.アヴィニヴェーシャ(生命欲)の四つの煩悩の根底にあるもので、他の煩悩は弱まったり、停止したりするが無明だけは常に働いている
どう考えても、少し厄介で、この無知を取り除く方法なんてあるのかな?と、思ってしまいます。
そして何を考えても、無知に行き着くのでどうしたものかな?って思っていましたが、シヴァーナンダさんは無知を取り除く方法についても
純粋な真理の探究
と、書かれている。
私はこの純粋と書かれているところが大切だと思う。
真理の探求をするきっかけそのものも純粋でありたいです。
後、ちゃんと向き合うことかもしれませんね。
私たちの勝手な解釈をいれず、そのままを観察するような感じです。
人間の心の中には、無知の海がある。心が存在するかぎり、大小、高低、優劣、善悪などが存在する。至高の真理に到達すれば、そこではもはや、比較するものは何もない。アートマンを知れば、比較できる、相対する二つのものは見られない。至福の平和と最高の知恵があるのみである。
私達は二つの間で思い悩むとわかっていても、いざという時にそれに気づかず好き嫌いをしたり、比較、ジャッジする対立状態を自分で作ってしまっています。
わかっているのにできないのは前に学んだサムスカーラを思い出します。
先月、マキ先生にサムスカーラのことをわかりやすく教わったので紹介します。
今までの理解はサムスカーラはヴァーサナー、カルマ・アーシャヤ、クレーシャがあるということだったけれども、『ヨーガ・スートラ』には
カルマ・アーシャは、行為の結果の種がたまっている層、つまり、潜在状態のカルマと説明されます。
まだ芽は出ていなくても、条件がそろえば結果として現れます。
ヨーガスートラでは、クレーシャを根としてカルマアーシャが生じると説きます。
そしてその報いとして、出生、寿命、苦楽の経験があると続けて述べられています。
カルマ・アーシャは果報の種としての蓄積に重心があります。
一方でサムスカーラは心に残る印象や傾向に重心があります。
どちらも深層に残るものですが、カルマ・アーシャは将来経験される業のことで、サムスカーラは心的な痕跡のこと。
一度覚えたものは上書きするのがなかなか難しいですが、丁寧に教えていただいたのだからしっかりと適応していかないとですよね。
心の外には無知は存在しない。心の想像と思考は心の無知のなせる業である。無知は心に焼きついているので、ジャパやプラーナーヤマ、サット・サンガで心を浄化する必要がある。ちょうど錆びついた銅を灰やタマリンドの粉で磨くように。
ここでは、厄介な無知を具体的にどうしたらいいかが書かれています。
これがシヴァーナンダさんの素敵なところですよね。
まずはジャパ。
マーラーの置き場所を変えてからできなくなっていたので、そこから毎日続けられる工夫をしてみようと思います。
心がなくても、体は行為を続けることの大切さが『シヴァーナンダ・ヨーガ』に書いてありましたが、これもなかなか難しいです。
でも、そんなことを言っていては適応できないので、他の本でシヴァーナンダさんは反対を思うことをおすすめされていました。難しいではなく、「できる」と心に誓って練習してみたいです。
そして、プラーナーヤーマ。
最近の気づきは自分の感覚で行うのが良さそうだということ。
プラーナーヤーマの意味はプラーナを広げるという意味で、コントロールという意味はないのに、深く呼吸をしたり、回数を数えたり・・・これは最初の段階ではいいのかもしれないけど、慣れてきたら、その縛りを解放して、プラーナは観ることも触ることもできないので、イメージや感覚を使って練習すると、終わった後の爽快さが違うことに気がつきました。
爽快な心でいたら、心の中に対立状態を生むのも難しくなると感じました。
さらに、最後にはサット・サンガをお勧めされています。
リシケーシのシヴァーナンダ・アーシュラムでは今でも毎晩行われるサット・サンガがとても大切にされています。
同じ気持ちの者同志が集い、純粋なエネルギーが強い場所にいることで、ここで言われているように心が浄化されるのだと思います。
【エゴのでき方】
アートマンがブッディ(知性)と結びついたのがエゴである。
アートマンは(『ヨーガ事典』から)
我。自我。個我。真我。自己。「呼吸する」という動詞から派生した言葉で、元来は「呼吸するもの」「気息」「生命」を意味し、またそれらによって生きている「身体」「自己」のことを指した。
哲学的な概念においては「真実の自己」「霊魂」を表し、宇宙的・客観的な原理であるブラフマンに対し、アートマンは個人的・主観的な原理を表す。ヴェーダーン夕哲学ではこのアートマンを認識し、ブラフマンとアートマンが同一のものであると直感することが中心的な課題となる。ウパニシャッド文献には梵我一如の思想をいろいろなえや親子師弟の対話を通して説いている。
ヴェーダ時代のインド人は、人は死後、地上での功徳により天上に生まれ、先祖たちと一緒に幸福に暮らせると楽天的に考えていた。しかし、やがて功徳が尽きてしまえば天上での楽な生活も終わり、再び地上に生まれ苦に満ちた人生を送らなければならないと考えられ、やがてはこの永遠に続く輪廻転生の束縛から逃れることが最大の課題になった。つまり今までのような現世利益を願うバラモンの祭祀から、輪廻からの解脱による永遠の安らぎへと関心が移ったわけである。これはその後のインドの宗教に非常に大きな影響を与える結果となり、それから後に現れた仏教にしろヨーガにしろ、一時的な現世利益を願うものではなく、解脱を求めるタイプの宗教に属するものであった。
バラモンの祭式から離れ輪廻からの自由を願った人々は、まず自己の本質を知らねばならないと考え、自身の内部へと深い注意を向けるようになった。そして深い洞察の結果、そこに発見したものは永遠不変なる何かであった。一度この何かを直感すると今までにはない心の安らぎを覚えた。人々はそれをアートマンと名付けた。
そして、このアートマンこそ太古から言われているブラフマンに他ならないことを直感した。自己の内部に深く沈静して行った結果、行き着いたのは暗く殻に閉じこもった自身などではなく、不安も恐れもない宇宙的な広がりを持った何とも広々とした心境であり、自分自身とこの宇宙とが一体(梵我一如)になったと実感するものであった。
また、ブッディは(『ヨーガ事典』から)
覚。サーンキヤ哲学において、プラクリティが最初に転変したもの。マハット(大)とも呼ばれる。このブッディ(あるいは、マハット)は認識作用を本質とし、精神的なものの大本になっているもの。このブッディがあるからアハンカーラ(自己感覚、エゴ)が生まれ、十一のインドリヤ(器官)やパンチャ・タンマートラ(五微細元素)やパンチャ・ブータ(五大元素)などが生まれる。
簡単に言えば本来の自己であるアートマンの意識が、ブッディ(認識作用)と結びつくことで、「私」という自己感覚=エゴが生じる。だけど深い意味を考えると少しわかりにくい。
サーンキヤではエゴは、プラクリティが最初に転変したのがブッティでその次に転変するのがアハンカーラ(エゴ)で、ヴェーダーンタは心の一つがアハンカーラ。
サーンキヤで考えたら、プルシャとプラクリティが出会うことで、プラクリティの中のサットヴァ・ラジャス・タマスの均衡が崩れ、この世界が展開されていく。プルシャ(アートマン)が、プラクリティからの転変によって現れたブッディと結びつき、そこからアハンカーラ(エゴ)が生じることを言っているのかな?
「私」「私の物」という考えがエゴの原点となる。
これはわかりやすい。
このエゴが人を現世につないでしまう。
これもわかりやすい。
スヴァーミージーから、エゴがあると生まれ変わるんだと教わったことがある。
「自分の肉体への執着があると」っていうお話しだったかもしれないが、私の身体って考えることがエゴになるから、言わんとしていることは同じだと思う。
心の種子はエゴであり、エゴは心の思考からつくられる。
これが最初に言っていた”アートマンがブッディ(知性)と結びついたのがエゴである。” と同じことなのかな?
エゴは心の一部で、私たちがそのまま観ることをしていればいいのだけれど、好きとか嫌いとか分けることを始めるので思考から作られることになるっておっしゃっているのかな?
世界はより強いインパクトで実在しているように感じられる。
これはヨーガやヴェーダーンタを学んでいないと「世界は実在しているでしょ?」と思われるかもしれないけど、「外界の多様性、雑多性は幻=マーヤー」「ジニャーナによって悟る」「梵我一如」ということがウパニシャッドに書かれているのを西洋の思想家たちが称賛したと『インドの叡智』に書かれていたことを思い出します。
なかなかのリアルな世界なので、私たちは見誤るけど、心をしかっりと手懐けて、知識を使って見誤りをなくしていくのがヴァーダーンタなんですよね。これは瞑想のテーマでもないし、気づくことが大切だと教わりました。
【エゴに悩まされる】
”エゴ自体は大したことはないのだが、その影響力たるやすさまじい。心はエゴの違った形だともいえる。世界もエゴだ。私や私の物といった考えで満ちあふれている。”
ここでは、エゴ自体は大したことはないと書かれている。
エゴは厄介なものと思いがちだけど、ヨーガスヴァルーパナンダジーは「エゴにはいいエゴと悪いエゴがある」という話をしてくれたことを思い出します。
私達がヨーガしたい、サット・サンガに参加したい…など、エゴがあるから行為をしているから、心はエゴの違う形と言われているのもわかります。
”これは単に無知からくる。”
また、無知が出てきました。
でもこれは無知を払う方法を教わったので実践あるのみです。
“あたかも雲が太陽を隠すように、エゴも永遠の知恵の太陽、ブラフマンとその輝きを覆っている。”
ブラフマンとアートマンは一つなのに、エゴに覆われていては見えなくなって、真実に気づけないままですね。
”エゴイスティックな考えを持ち、物的名前や形に魅せられ、欲望を感じるのならば、大宇宙の真理を発見することはとうていできない。”
ここも同じようなことが書かれています。スヴァーミージーから名前と形があるものは本物ではないと聞いた話を思い出します。
【エゴの撲滅方法】
”エゴの深い根は知恵の火で燃やさねばならない。その時悟りの境地になれる。あらゆる苦難、痛み、悲惨、苦悩はその時終結する。感覚器官のコントロールとプラーナーヤーマが効果的である。”
エゴはやっぱり根深いのがわかります。
そしてそれができれば、あらゆる苦難、痛み、悲惨、苦悩はその時なくなるのだから、ここに書かれているように、難しいけど感覚器官のコントロール、プラーナーヤーマをすることですね。
心とプラーナの関係はわかりやすいところでもあると思うし、それぞれ実体験があるんじゃないかと思うところです。
”エゴを一挙に撲滅はできない。”
”すこしずつ、気長に取り除くことが大切だ。”
と、書かれていて、単純な私は俄然やる気が出て来るのですが
”四年たてば根絶できるだろう”
とも書かれていて、ヨーガ歴は4年以上・・・。
やっぱりそんなに簡単じゃないですね。
でも、諦めずに続けたいと思います。
さらに方法がまた書かれていて
”方法は、カルマ・ヨーガで献身的奉仕をするか、バクティ・ヨーガで神にすべてをゆだね、祈るか、ヴェーダーンタの知恵で克己するかである。”
シヴァーナンダさんなら、「全てを満遍なくおやりなさい」っておっしゃりそうです。
”エゴは糸のようなものだ。それぞれのエゴがすべての感覚器官とつながっている。真珠のネックレスの糸が切れれば、真珠は散らばってしまう。同様に、修行を通じてエゴの糸を断ち切れば、感覚器官とのつながりも分断されるであろう。”
ここを読むと、最初にも感覚器官のコントロールが書かれていて、それはかなり高度なことだよ・・・って思いましたが、エゴと感覚器官の関係を観察してみたくなりました。
”エゴが頭を持ち上げて来たとき、自問自答するがよい。”
これは大切なことだなと思ったので、参加者全員で目標を決めましたが、私は自問自答を選びました。コツコツ続けていきたいと思います。
こんなふうに、シヴァーナンダさんは解決方法まで教えてくださっているので、そんな提起がされた時には、それぞれが今月の目標となるものを一つ宿題のように持ち帰っています。
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全ての窓口は加藤です。
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最後に
最近よく思うことがあって、Yoga Bijaの教室は皆笑顔だなぁ〜ということ。
シヴァーナンダさんもヨーガスヴァルーパナンダジーも太陽のようだとか、歩く太陽って言われていたように、Yoga BIja全体に漂っている雰囲気を一言で言うなら太陽になると思います。
その雰囲気の中にいるだけで心地いいものです。
誰がいいことを言った、誰が良いことをした・・・ではなくて、その人から醸し出てしまう雰囲気が、とにかく日向ぼっこの時の太陽みたいな感じなんです。
良かったら、オンラインでもそんな感じで行なっていますから、お気軽にご参加くださいね。
Yoga Bija
加藤

