心に光を灯す【サット・サンガ】スヴァーミー・シヴァーナンダの教えから得た2025年9月の学びと次回のご案内


9月のサット・サンガは直美先生の認定式も行いました。

その様子はまたご紹介します。

盛りだくさんの1日でしたが、今回読んだ部分もじっくり読むのにぴったりな部分でした。

いつものように先月の学びを振り返っていきます。

★ サット・サンガについて知りたい方はこちら ( 【なぜ?シヴァーナンダさんの本なのか?】についても書いています。)

2025年10月 開催のご案内

 この読書会に興味を持たれた方は、ぜひお気軽にご参加くださいね。

日時: 2025年10月25日(土)17時~18時30分

場所: オンライン(Zoom使用)

読む書籍: スヴァーミー・シヴァーナンダ著『ヨーガとこころの科学』

参加費: 無料

持ち物: 『ヨーガとこころの科学』・筆記用具

参加方法: 事前予約制。

ご予約は、24時間前までにお申込みください。

LINE や下記記載のメールやお電話、予約サイトからお申込みいただけます。

キャンセルの時もご連絡お願いします。

●LINE

●メール:ylsbija@gmail.com

●電話:090-7912-2282

2025年9月参加のメンバー各自の学びのまとめ

9月は第十二章 知覚の理論の続きで【知覚はどのように起きるのか】からでした。

◉みさき

今月はリアル参加をさせていただきました。

直美さんの認定式に立ち会い、初心に帰ることもできました。また、成瀬先生の勉強会の風景も思い出したり、色々な感情に触れた9月のサット・サンガでした。

今回読んでいて、いつも以上に難しい…と感じました。

【ヴェーダーンタの教え】では「外」と「内」をマンゴーの木を用いて説いていました。

マンゴーの木は自分の体から見て外にあると思う。

肉体自身もまた外に見る。マンゴーの木も体も宇宙さえも外に見る。しかしこの「外」という考えは無意味なものである。内というのも錯覚である。内は、外を考えて初めて存在する。外がなくなれば内もないのだ。内も外も錯覚であり、心がつくった虚像なのだ。真実は内と外を超越して、唯一の実在である永遠不滅の存在があるのみである。これが真理であり、その無限の自己があなたの本来の姿、永遠の魂だとヴェーダーンタは説く。

“内外を超えた自己”を悟ること。

「私は体でも心でもなく、観察している意識そのものである」と気づくこと。

→サマーディ

ヴェーダーンタは、頭で理解するものじゃない、気づくもの。と話しもありましたが、どちらも難しい。。

また10月も楽しみにしています♪

◉なおみ

p70【知覚はどのように起こるのか】

対象物とは、心の活動で対象化しただけで、存在するのは光と振動だけである。それに色と形を与えるのは心である。

内なる心と、外の物質元素の振動の交換が対象物となり、外に見える世界を形成する。これが知覚理論である。

五大元素、地、水、火、風、空の元素のうち、目は火の元素からなる。見る心の部分も

火の元素からなる。火が火を見るのである。

だが、アートマンはすべてを見、聞き、味わい、感じることができる。アートマンはアートマンによってのみ見える。だから、「すべてがアートマンである」。

これまでのところを読み進めてきて、心が対象物を作り出している、ということは分かる気がしました。同じものを見ていても、感じ方や捉え方が異なるのも人によって心の動きが違うから。

後半のアートマンはアートマンによってのみ見える、のところの解釈や理解があまりピンときませんでしたが、分からないことをテーマにしておいておくのもよい、という話もあり次に進みしました。

私もよく、考えるけど一旦寝かせておいて、ふとした時にまた思い出したり、ビビッとつながることもあり、これもそんなビビッとのタイミングが訪れるといいなと思いながら寝かせました。

p73【ヴェーダーンタの教え】

マンゴーの木は自分の体から見て外にあると思う。肉体自身もまた外に見る。マンゴーの木も体も外に見る。しかしこの「外」という考えは無意味なものである。内というの内は、外を考えて初めて存在する。外がなくなれば内もないのだ。内も外も錯覚であり、心がつくった虚像なのだ。真実は内と外を超越して、唯一の実在である永遠不滅の存在があるのみが真理であり、その無限の自己があなたの本来の姿、永遠の魂だとヴェーダーンクは説く。

マンゴーの木を例にヴェーダーンタの教えが説かれていました。一元論と二元論、どちらが正しい、間違えということはなく捉え方の違いがあるだけだと思いますが、その捉え方の違いもあやふやなところもあるので、これも引き続き深掘りしていきたいです。

私は最近瞑想するとき、すべてが溶け合うようなイメージをもってみたり、身近な人のアートマンをイメージし”本来の輝きを取り戻せるよう元気になれ〜”とパワーを分けるように想像してみたりしています。

内も外もなく、その概念すらなくなる。そんなことを直感的に感じるときが訪れることを、期待しすぎず、でも楽しみにしています。

◉かとう

【知覚はどのように起きるのか】

知覚された時だけ世界は存在すると考える学派では、知覚するものと知覚されるものとは一つである。

わかるようで、わかりにくいことを目にする(知覚すると)私はシャットアウトしてしまうけれど、読書会で皆と一緒に読んでいると、このわかるようでわかりにくいこの部分とも向き合うことができます。

ひとまずここでは、「知覚するものと知覚されるものは一つ」を覚えておきたいです。

ちょうどクモが自分の体から糸を出して巣をつくるように、心は目覚めている時、物理的なこの宇宙を自らの体から投影し、睡眠時に自分の体内に引き戻す。

ここは難しいですね。でも、全てが自分が基準になっているという理解でいいのかな?自分が見たいようにこの世の中を見ていると言い換えれば凄く納得します。

対象物とは、心の活動で対象化しただけで、存在するのは光と振動だけである。それに色と形を与えるのは心である。

内なる心と、外の物質元素の振動の交換が対象物となり、外に見える世界を形成する。これが知覚理論である。

私たちの心が対象物をみる時は、変幻自在にそのものを見るから、人それぞれ同じものを見ても心で感じることが違うとように、物質そのもののもつ元素も関係しているということなのかな?

少し複雑だけど、だからこそ色々な見方がある。

自分と同じ考えの人ばかりではないし、似ている考えの人も入れば、正反対の人もいる。

そんな色々ごちゃ混ぜになっているのがこの世の中だと思う。

五大元素、地、水、火、風、空の元素のうち、目は火の元素からなる。見る心の部分も火の元素からなる。火が火を見るのである。だが、アートマンはすべてを見、聞き、味わい、感じることができる。アートマンはアートマンによってのみ見える。だから、「すべてがアートマンである」。

前半の五大元素と対応している感覚器官があるというのは初めて知った。

そこからアートマンの話しになっていく関連はわからないが、「すべてがアートマン」というのは一元論だから理解できる。

【西洋医学の見解】

西洋医学によれば、物を見るということは、外部から光の振動が網膜に届き、そこに反対の像を結ぶ。このバイブレーションは視神経の束を通して間脳の中央部に達し、後頭部の大脳葉にある視覚中枢に運ばれる。ここで逆の像が戻されて正しい像となる。こうして人は目前の対象物を見ることができる。このように説明している。

さすが、お医者さんだったシヴァーナンダさんの西洋医学的解説。

【精神と物質の二元論(サーンキヤ哲学)】

ここは、本を読んでいるだけではなかなか理解が難しいのではないかと思ったところだけれど、じっくり言葉の整理をしながら読むと、私が教わってきたサーンキヤ哲学と同じことだった。

なので、最初の

四世紀に出た「サーンキャ・カーリカー」によると、精神的知覚の基礎はプルシャ(宇宙の真我)で物理的動力源はプラクリティ(宇宙の実体・自性)である。

これは大事。この理解があって読んでみるとわかりやすいと思う。

サーンキヤは二元論だから、プルシャとプラクリティという二元からなっています。

私達が学んだ時は、この二元(プルシャとプラクリティ)から展開していくと学んだけれど、今回は二元のうちのプラクリティが展開していってこの世界があると考える。

そしてその数を数えると全部で25になることから数論とも言われていると学びました。

その展開しきったところから書かれていると思えばよくわかる。(『インドの叡智』P105参照)

サーンキャ哲学では、目は知覚の器官ではなく単なる視覚の手段にすぎず、見たままの印象を視覚中枢に送る役目をする。見たものを知覚するのは脳の中枢である。心は、内側に向かっては内部知覚器官に接続しており、内部器官は脳の中枢にまでつながっている。その一方で心は外側に向かっては、肉体に備わった目や耳などの感覚器官を経由して外の対象と接する。

まず目は感覚器官とつながっている体の器官。

体の器官から視覚に送られる。

そして私達は脳で知覚する。

心は脳(内側)と感覚器官を通して外(外側)にもつながっている。

心は印象をブッディ(知性)に伝える。知性はプルシャに伝える。プルシャは純粋な魂であって物質ではない。真我によって本当の知覚が行われる。真我は知性に命じて適切な判断をさせる。知性は状況を熟慮した後、心に行動のための指令を戻し、心は活動器官を通して実行命令を伝達する。

ここを読み解くには、また、展開する前の二元の状態(プルシャとプラクリティ)を思い出すとわかりやすいです。

心(マナス)は感覚器官を通して感じた情報を、自我意識(アハンカーラ)を経由させることで「私自身のこと」として投影します。

その後に、その情報が知性(ブッディ)に伝えられます。

このブッディは、プラクリティ(宇宙の実体)が三つのグナの活動によって展開したものでした。

プルシャに伝える

と書かれているけれど、プルシャは何も活動しない純粋な存在だからです。

精神的知覚の基礎はプルシャ(純粋意識、真我、観照者)で、物理的動力源はプラクリティ(根本原質)であると書かれていた通りです。

プラクリティは活動(展開)するが、それはプラクリティの三つのグナが均衡であれば活動しません。

プルシャはただ見ているだけの存在です。

次に続く

真我によって本当の知覚が行われる。

これは、真我=アートマンなので、プルシャのことを言っています。

本来はただ見ているだけの存在がプルシャなので、知覚が行われているか?と言えば、厳密には行われてはいないと考えますが、文脈上わかりやすい表現になっています。

本当の知覚

というのが、ただ見ているだけの観照者だと理解すればいいと思います。

真我は知性に命じて適切な判断をさせる。

これも真我=アートマン=プルシャなので本来は知性に命じることはしません。

でも、プラクリティはプルシャに自分の存在を見て欲しくて三つのグナが動き始めるので、そう見えるかもしれません。

知性は状況を熟慮した後、心に行動のための指令を戻し、心は活動器官を通して実行命令を伝達する。

これはプラクリティの展開がブッディから感覚器官までの道のりを表している。

心は二つの役割をする。(1)内部への説明役、弁護士、(二)外部への行動命令としての、総司令官役である。知性からの指令を受け、総司令官としての心は、部下である五つの活動器官を通してこれを実行させる。

これもまた、プラクリティからの展開です。

ブッディからアハンカーラそして一方はマナス、11器官という展開と、もう一方はアハンカーラまでは同じでマナスではなくパンチャ・タンマートラやパンチャ・ブータという五大元素に展開していきます。

いいかえれば、五感の知識は、それぞれの感覚器官とその対象との接触から始まる。宇宙の現象を知るには、物的対象、外部感覚器官、内部知覚器官(インドリア)、プルシャが必要である。感覚器官は対象物に直接遭遇し、心はこれを映し出す。知性はプルシャの輝きでこれを理解する。

この部分は、展開しきった体と五大元素から二元に戻っていく様子が書かれていると思う。

【ヴェーダーンタの教え】

・ヴェーダ文献の最後という意味でヴェーダーンタと呼ぶ。

・代表的教典は『ウパニシャッド』、『バガヴァッド・ギーター』、『ブラフマ・スートラ』

・インド哲学の中でも最も高く評価されている学派

・「ブラフマ・スートラ」はシャンカラが理論的に大成した教え

・一元論は、宇宙に遍在するアートマンは、人格的な存在として個々の人間の中にも個我として内在していると説いている。

内なる意識が知覚を可能にする。内なる意識と内部感覚器官としての心の働きは、対象を覆い隠している無知の層を除くことで一つとなると考えられる。

・内なる意識=アートマン

アートマンが知覚を可能にすると書かれています。

アートマンがなくなることはないので、いつも私達は知覚することができている、と読み解けます。

・内部感覚器官=心=心の作用=マナス、ブッディ、アハンカーラ、チッタ

心の働きは、何か対象物がないと動きません。

例えば、桜を見てどう思うことや、何かを感じる・・・ということは、皆、それぞれ何かの対象物があるからそれに対して心が動きます。

でも、ここでは対象を覆い隠している無知の層があると書かれています。

無知=間違っていても、それが本当に真実だと思うことです。思っている時の気持ちに揺るぎはありません。

この無知が対象物を色々なものに見るのです。

例えば、私とAさんは同じ桜を見て、同じように知覚するとは限りません。

それは、私とAさんの無知がそうさせます。

だから、この無知を取り除くことで、桜はそのまま桜として見ることができます。

対象物を見たとき、心のインスピレーション(閃き)が目という道具を通して実際に出て行き、対象を形どり、対象を包み込む。こうして、知覚が生じる。

これも前に書かれていることと同じです。

マンゴー園を通る時、目から心の閃きが出て行き、マンゴーを包み込む。心はマンゴーの形をとる。この心の閃きには知性が働いていて、これが対象であるマンゴーを明らかにする。暗闇で懐中電灯が対象を明らかにするように、閃き出る知性が対象を明らかにする。心はマンゴーかそうでないかを認識する。これは心の中の知性が過去の経験を通じて、これはマンゴーであると決定あるいは認識するのである。

マンゴーの例えです。

過去の経験を通じて

という部分に面白さを感じます。

まず経験(マンゴーを知らなければ)がなければ、マンゴーはただの綺麗な色の楕円形の物体です。

マンゴーの木を見る時、マンゴーの木は外にある。外に存在する対象であるが、マンゴーの木は心の知覚であり、精神的概念である。心を離れてマンゴーの木は存在しない。マンゴーの木は心を通じてのみ知ることができる。心の中に印象があり、この心の印象と外の物体が組み合わさったものがマンゴーの木である。だから目を閉じても、記憶からこの像を得ることができる。

マンゴーの例えが続きます。

・マンゴーの木は外にある=私達がマンゴーの木を見ている時、私と私以外(マンゴーの木という対象物)と分けて考えますよね。一般的には、私とマンゴーが一緒だとは考えていないと思います。

・精神的概念=「精神」「意志」「意識」「人格」「記憶」など、人の内的なプロセスや状態を表す抽象的な概念です。

マンゴーの木を見る時の様子が書かれています。

マンゴーの木があるが私ではない。

マンゴーの木は私たちの心が知覚します。

これも、先ほどと同じ、見る人によって「マンゴーの木だ!」または「ただの木」にもなります。

マンゴーの木を知っている人であれば、マンゴーの木と知覚できます。

だから、ただ見ていてもこれが「マンゴーの木」と思えるのは、経験した過去の印象が関わっていると仰っています。

マンゴーの木は自分の体から見て外にあると思う。肉体自身もまた外に見る。マンゴーの木も体も宇宙さえも外に見る。しかしこの「外」という考えは無意味なものである。内というのも錯覚である。

内は、外を考えて初めて存在する。外がなくなれば内もないのだ。内も外も錯覚であり、心がつくった虚像なのだ。真実は内と外を超越して、唯一の実在である永遠不滅の存在があるのみである。これが真理であり、その無限の自己があなたの本来の姿、永遠の魂だとヴェーダーンタは説く。

・マンゴーの木=自分の肉体=宇宙は、自分の体の外にあると、書かれています。

自分の体なのに?外にあると考えるのは、アートマンは永遠だけど、肉体は滅びるから永遠とは考えないので、マンゴーの木と同じと考えます。

・そして結局は「外」「内」と分けて考えない。と書かれています。

・「外」「内」も心が作った虚像です。このリアルの痛みや快感を感じる肉体や心も変わるものです。変わらないのは永遠不滅の存在(ブラフマン)と、無限の自己(アートマン)は同じ=梵我一如 と理解できます。

【心のみが違いをつくりだす】

目は映るままの形あるいは像を心にもたらす。形の善し悪し、好き嫌いを決めるのは心である。

「これは良い、これは醜い、これは美しい」と心はいう。そして、ここから東縛と問題が始まるのである。善し悪し・美醜は単に心がつくったものである。心がつくったと仮定すれば、心はこれを容易に壊すこともできるはずだ。

今まで読んできたことで、この部分の理解も深まります。

目で見たままではなく、私達は心が色々と作用し、お喋りを始めます。

そうすると、束縛と問題が始まるのも理解しやすいです。

心をざわざわさせます。

私達はハタ・ヨーガも実践しているので、アーサナしながら「このアーサナは上手にできるから良い、これは股関節が硬くで上手にできないから悪い」と分けず、マンゴーをただ見るようにこの身体を観察だけしていれば良いのに、リアルな身体の反応に引っ張られます。

引っ張られた!と気づいて戻ってきたいですね。

そうすれば、ここに書いてあるように心の作ったものを壊すことができると思います。

同様に、耳は心に音の振動を伝える。「これは誉めている、これは非難している」と心は判断する。

実際、耳にも目にも責任はなく、単なる報告者である。すべては心がつくり出しているのだ。

視覚や触覚だけではなく、五感にも引っ張られますね。

辛口な批評を受けた時も、受け入れますが、落ち込むことなくただの振動と思えたら良いですね。

【心は一瞬に一つだけ認識できる】

心は限定されたものだけを考えることができる。心は緑色の対象物を考えることなしに、緑の色そのものを考えることができない。

この例えはわかりやすい。

心は一つであり、分割されない。一度に一つだけ考えることができる。心は一度に一つの対象にだけ関わることができる。実際心は非常に驚くべき速さで対象から対象へと移るので、一度にいくつかのことを同時に把握できると考える人もいる。しかし心は門番のようなもので、一回ごとに一人だけ中に入れる。心の工場では、一つの感覚器官からの振動だけを受け入れる。同時に見、聞くことはできない。心は一度に一つの考えだけを抱くことができる。しかし心は稲妻のように猛烈な速さで動くので、普通の人には、一度にいくつもの考えを抱くことができるように思えるのである。

これは目から鱗でした。

ハタ・ヨーガしながら、身体も呼吸も感じていると思っていました。

でもひとつずつということなので、私が感じていることはできないようです。

猛烈な速さだから気づかなかったのですね。

ここで学んだことで、アーサナのやり方もじっくり向き合えそうで、日々の生活にもいかせそうです。

制限された心を通じて、知覚、認識、経験は順次に行われるのであって、同時には行われない。同時の知識は、過去と未来が一つに溶け込む超越意識状態でのみ可能なのである。ヨーギーのみがこの同時の知識を得る。制限された心を持つ俗世の人間には順次の知識だけが可能である。どのように密接な関係があろうと、二つの考えに同時には対処できない。内部器官である心の性質が、意識に提示された対象を一回に一つだけ取り上げるようになっているのである。

ここも、同じことが書かれています。

過去と未来が一つに溶け込むのは超越意識状態でのみ可能ということ、これは覚えておきたい。

私達は1回に一つだけしか対処できないようです。焦らず、着実に対応したいものです。

心が注意を向けて視覚につながると、見ることだけができる。その時聞くことはできない。同時に見、聞くことはできない。これは誰もが経験することである。もし心が興味のある本に夢中になっていると、外の叫び声も聞こえない。心は聴覚にないからである。何か一つの問題に真剣に取り組んでいると、他の何も見ず、何も聞こえず、何も感じない。心が他の感覚器官から離れているからである。

これも実体験されている方が多いのではないでしょうか?わかりやすいです。

西洋東洋を問わず、最高の哲学者、聖者、権威者が「一度に一つの考え」の説が正しいとしている。

心は一回に一つのことにしか実際に従事しない。光の粒子は速く回転している時、連続した光の輪に見える。そのように、心は一度に一つのこと、見るか、聞くか、嗅ぐかなどにだけ専念できる。そのスピードの速さゆえにたくさん処理できるようにみえる。

心は一度に一つ。

何度も言われているので、忘れないと思います。

【知覚は補いあう】

人によって視覚よりも聴覚の方がより発達していたり、その逆もある。裁判官はすぐれた聴覚を持っており、軍司令官は鋭い視覚を持っている。仕事の内容が感覚を特別に発達させる場合もある。盲人は聴覚が大変発達している。一つの感覚器官に欠陥がある場合、天は他の感覚器官をより発達させて、この欠陥を補う。私は、手で触れることで色を感じることができる盲人を知っている。

これも実体験があり、仰っている意味はよくわかります。盲目のピアニストで有名な方もいらっしゃいます。

プルシャ(宇宙の真我)にとって、言葉は目である。ここでいう言葉は人間の聴覚の対象では音を意味する。この振動に啓発されて、心に映像がつくられる。心によって外の物を捕らえようと努力する。心によって見、聞くのである。暗い夜道で何も見えない時、馬のいななき、ロバの鳴き声、犬の吠える声を聞いて、音が来る方向に進むのに似ている。

言葉=目=音と仰っている。

ハタ・ヨーガの教典を読んでも、音を使った瞑想があったり、チャクラに対応するマントラがあったり、マントラそのものも音を大切にすると学んだけれど、自分の中では、身体の細胞のひとつ一つも常に動いている振動だから、そういう意味でも、音は目に見えない影響を持っていると感じています。

自然の中にいるといい理由のひとつは、私たちが聞き取れない周波数の音を身体が受け取っていて、色々な音が混ざっている環境が身体にも良いと聞いたことがあります。

例えば、自然が豊かであれば、波の音、風の音、鳥の囀り、虫の声、川のせせらぎは聞こえるけど、それ以外に動物や虫が発している聞こえない音が混在している状況です。

私も里山に住んでいるので、新月だったり、曇りだったりすると夜は真っ暗ですが、そんな中で音がすると、そこに何がいるのか?色々と想像します。

ここで言っている

この振動に啓発されて、心に映像がつくられる。

だと思う。

私達は実際は目で見て、耳で聞いていると思っているけど、心で見聞きすると書かれている。

ただ、その続き

暗い夜道で何も見えない時、馬のいななき、ロバの鳴き声、犬の吠える声を聞いて、音が来る方向に進むのに似ている。

の理解が難しい。

現時点では、音がくる方向に心が向くことを、音がくる方向に進むと言っていると理解しています。

【超感覚の知覚】

真に見、味わい、嗅ぎ、聞き、感じるのは心である。目を閉じてクリシュナ神の姿を思う時、心の目を通じて、その姿を見る。

神智学者はこの目を必要とせず、心で直接に見ることができる。大宇宙の主と一つであり、直接に主の目で見られる。

ここも、前の部分と同じようです。

前の部分は言葉=目=音だったけれども、ここでは真に見る=味わう=嗅ぐ=聞く=感じる=心というように範囲が広がっている。

また、クリシュナ神を思う時、目を閉じていても、映像化できているということは心で見ていることになる。

神智学者と書かれていて、私はクリシュナムルティと関係の深い神智学協会と結びつけてしまって、良いことが書かれているのに、なんでここでオカルトっぽくなってしまうのだろう?と疑問だったけど、AIに聞いてみたら

超感覚の知覚を完全に体得したヨーギー(行者)

という解説をしてくれた。

おかげで

心で直接に見ることができる。大宇宙の主と一つであり、直接に主の目で見られる。

が繋がりました。

私達はどうしても無知のヴェールを破ることができず、直接見ていません。

カーテン越しに見ているから大宇宙と一つになれません。

ここでいう大宇宙は天体の宇宙だけではなく、時間・空間・原因の結果(プラクリティ)、私はこの世と考えるけれど、そのすべてを含む絶対的な存在と解釈するとスッキリします。

私たちも個人の目で観るのではなく、なるだけ俯瞰しながら大きな広い視点で観れるといいですね。

悩みも大したことに感じなくなります。

最後に

いつものように長文にお付き合いくださってありがとうございます。

記事を書くと、これを読むのに55分かかると書かれていました。

わかりやすくお伝えしたい!という想いが長文になってしまいます。

特に今回はサーンキヤやヴェーダーンタというインド正統六派哲学の二つを扱ったので、簡単にわかりやすくお伝えしたいけど、間違えを伝えたくないという想いでした。

簡単でわかりやすいの落とし穴は事実を曲げてしまうことがあると思っていたので気をつけました。

それでも、わかりにくいことがあると思うので、ぜひそんな部分を教えていただけたらと思います。

そして、ぜひ一緒に本を読みましょう。

サット・サンガでお待ちしています。

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