心に光を灯す【サット・サンガ】スヴァーミー・シヴァーナンダの教えから得た2025年8月の学びと次回のご案内
今日はシヴァーナンダさんのお誕生日です。
明日はYoga Bijaのお誕生日で、成瀬貴良先生の命日です。
色々と続く9月の2週目です。
Yoga Bijaではシヴァーナンダさんの著書『ヨーガとこころの科学』を読む読書会を開催しています。

今月はヨーガ指導者育成コース卒業のなおみちゃんの認定式も執り行うので、オンラインと清水町教室での開催になります。

前半に認定式、終了次第読書会になります。
サット・サンガ終了後に会食も予定しています。
今回はインドカレーを食べましょう♪
サット・サンガだけ、会食だけでもOKです。
締切は19日19:00まで、お申し込みは下記へ、メール・LINE・お電話など使いやすいもので大丈夫です。
さて、タイトルに戻りまして、今月の学びを振り返っていきます。
★ サット・サンガについて知りたい方はこちら ( 【なぜ?シヴァーナンダさんの本なのか?】についても書いています。)
2025年9月 開催のご案内
この読書会に興味を持たれた方は、ぜひお気軽にご参加くださいね。
日時: 2025年9月27日(土)17時~18時30分
場所: オンライン(Zoom使用)/ 清水町教室
読む書籍: スヴァーミー・シヴァーナンダ著『ヨーガとこころの科学』
参加費: 無料
持ち物: 『ヨーガとこころの科学』・筆記用具
参加方法: 事前予約制。
ご予約は、24時間前までにお申込みください。
LINE や下記記載のメールやお電話、予約サイトからお申込みいただけます。
キャンセルの時もご連絡お願いします。
●LINE


●メール:ylsbija@gmail.com
●電話:090-7912-2282
2025年8月参加のメンバー各自の学びのまとめ
第十一章 心の波 から
◉みさき
【心の波の性質と機能】
心の波とは渦巻きのことであり、内的心理器官に起こる考えの波のことを指している。
とありました。
渦巻きとは意外だね!こっちの波かと思ってた〜。
まさかの渦巻きに驚きつつ、この心の波は無知から発生しているとあります。その無知が知恵によって打ち負かされたとき、心の波はブラフマンに吸収されてしまう。
無知=アヴィディヤー(Avidyā)
・ヨーガスートラ・二元論
ヨーガ・スートラにある五つの煩悩(無知、エゴ、執着、憎悪、生命欲)
何も知らない、の無知ではなく、
「真実が見えていない状態」や「思い違い」を意味します。アヴィディヤーは、不変でないものを不変と見なしたり、不浄なものを清らかと見なしたりするなど、実相を見誤る根本的な無知であり、苦しみの根源とされています。
「人を束縛するのは事物そのものではない。物への執着とこだわりを持つ心の波のせいである。『私』が自分だと思い込む無知からそれは発生している。自分はこの粗雑な肉体だと信じ込むことから始まっている。自分で自分を束縛していることに気づかない。」
この無知を無くすには、正しく知恵を身につけること。そのために、学んだり、瞑想したりが大事。
日々の生活の中で実践してこそ。
なかなか難しいですが、そうすれば、問題が起きたときでも解決策を見つけることができる。
心の波を鎮めるには、外に出たがる心を内に向け、ハートの中にしっかり止める。自分の内側に原因があることに気づけば、無知も大きく広がらない。
今回はなんだか、まとめる上で「無知」ついて、たくさん考える機会となりました。
来月もよろしくお願いします。
◉みずき
○心の波
渦巻く心の波は無知から発生している。その無知が知恵によって打ち負かされた時ブラフマンに吸収されてしまう。
そんな時…
心をブラフマンの思いで満たす。
しっかりと自分の心の波を見つめる。
純粋さが流れこむ…
“外に出たがる心を内に向け、ハートの中にしっかり止めた時、心の波は鎮まる”
内へ…内観、瞑想→忍耐、寛容が必要
ブラフマンを思い、オームに祈り、心を込めてオームを唱え、宇宙の意識との一体感!
ぜひ味わいたい。
○知覚の理論
心は二つの部分で分かれる
・思考の部分
・知覚の部分
人は考え、そして理解する。考えることなしに知ることはない。考えた上でのみ理解する
人は知ったことで考え
知覚部分で理解を深めるのか…
理解する頭が乏しい
ブラフマンを思い祈ろう♪
◉なおみ
第十一章 心の波
心の波とは渦巻きのことであり、内的心理器官に起こる考えの波のことを指している
とあり、渦巻きのイメージではなかったので新鮮でした!
また、その波は心が姿を変えたもので、無知から発生していると。
「無知」とは、ただ知らないことではなく、間違って信じてしまっている、勘違いしている、という意味と教えていただきました。
知らないだけであれば、その真実を素直に受け止められるかもしれないけど、間違っていることを”信じて”しまっている場合は、その概念を覆すのは大変な作業であり時間もかかることなのだろうなと思いました。
そして、その波を鎮めるためには
外に出たがる心を内に向け、ハートの中にしっかりと止め
なくてはならず、内観、瞑想、そしてすべての放棄を行う、ひたすらブラフマンを思うこと。
外へ向く心、執着やこだわり…。
生活の中で物に囲まれ、人と関わる中で、なかなかそれを断ち切るのは大変なことですが、「無知」や「執着」していることに気づくことが、まずは第一歩!と思い、日々の生活の中でも意識していきたいと思いました。
◉かとう
【心の波の性質と機能】
心の波とは渦巻きのことであり、内的心理器官に起こる考えの波のことを指している。心が姿を変えたものでもある。無知から発生している。その無知が知恵によって打ち負かされたとき、心の波はプラフマンに吸収されてしまう。
ここで、皆共通で、「波は波でも渦巻きなんだ」と妙に「渦巻き」に引っ張られましたが、心の波には変わりありませんね。でも、あえて渦巻きと言われたら忘れずにいられそうです。心のざわつきは渦巻き!
また、「無明(アヴィディヤー)」から生まれているとのこと。
「無明(アヴィディヤー)」は
『ヨーガ・スートラ』では
五つある煩悩のひとつで
他の煩悩
・アスミター(我執):認識能力と認識されるものの同一視。
・ラーガ(貪欲): 快楽への執着。
・ドゥヴェーシャ(嫌悪): 苦しみからの回避。
・アビィニヴェーシャ(生命欲): 死への恐怖。
の土台になっているもの。
ヴェーダーンタでは
「自己」(アートマン)と宇宙の根本原理である「ブラフマン」が本来は一体であるにもかかわらず、それが別々のものであると誤って認識すること。
すなわち「梵我一如」の真実を知らない根本的な無知を意味します。
この誤った認識によって、私たちは「私」という個々の存在が、全体とは切り離された独立したものであると錯覚し、様々な苦しみや煩悩を生み出します。
これは、暗闇の中で縄を蛇と見間違えて恐怖を感じる例えで説明されることがあるように、縄(ブラフマン)は元々一つで変わらないものですが、誤った認識(アヴィディヤー)によって蛇(個別の世界)という実体のないものを見て、そこに苦しみ(恐怖)を生み出します。
どちらも「誤った認識」を苦しみの根源と捉えている点では共通しています。
無知を取り払うことで
無知のベールを取り除くためにである。ベールがなくなれば、対象をはっきりと知覚することができる。
その方法は
心はその努力で、どんな形にもなれる。女性のことを思えば、女性の形となる。神、ブラフマンを思えば、心はすべての考えを止滅して、ブラフマンの思いで満たされる。女性を思うと欲望が流れ込むが、ブラフマンを思うと純粋さが心に流れ込む。
修行者はしっかりと自分の心の波を見つめねばならない。心が低きに傾いたと感じれば、ただちにブラフマンを思いなさい。
と、ブラフマンを想うことと書かれています。
ということは、ヴェーダーンタの「無知」ということだから、上記にあるように
「私たちは「私」という個々の存在が、全体とは切り離された独立したものであると錯覚し、様々な苦しみや煩悩を生み出します。」
だからブラフマンを想うことにつながるのですね。
そして、忠告もあります。
この時大きな葛藤と出会うことも覚悟しておくように。
さらに、忘れてないようにしなくてはいけないのは
人を束縛するのは事物そのものではない。物への執着とこだわりを持つ心の波のせいである。
と、いうこと。
シヴァーナンダさんは
「私」が自分だと思い込む無知からそれは発生している。自分はこの粗雑な肉体だと信じ込むことから始まっている。自分で自分を束縛していることに気がつかない。
と、締めくくっている。
やはり、ヴェーダーンタの考え方で仰っているようです。
「梵我一如」はブラフマンとアートマン(真実の自己)はひとつということです。
分けて考えないようにしたいけど、難しい・・・
無知が邪魔をします。
無知のヴェールを取り除くにはブラフマンを想うことでした。
形のないブラフマンをどう思ったらいいのでしょうか?
その方法もみんなで語り合いましたが、すぐに答えは出てこなかったので熟慮を重ねていきたいと思います。
【波が鎮まると心は偉大な力を得る】
冒頭に
外に出たがる心を内に向け
と、あります。
これもまた熟考のことを言っているのでしょうか?瞑想のことを言っているのでしょうか?
そうすると、心の波は鎮まると書かれています。
ということは、心をブラフマンに向けるということになります。
動的でラジャスな傾向を持つ人は、自分の内面、心の波を鎮めることなど考えたこともないだろう。
本当にそう思うし、かつての自分もそうだった。
ワクワクドキドキすることがいいと思っていました。
心を内側へ向かせるには、まず外へ向く心の力を断ち切ってからでないと不可能だ。
内観や瞑想はこういう精神状態をつくりだすのに大変役にたつ。
と、書かれています。
内観や瞑想が先と言っているのか?感覚器官を静かにさせることが先だと思っていました。
長年感覚器官の楽しみの上に投げ出されて来て、外に向かうことに慣れている心を内へ引き戻すには、忍耐と寛容が必要だ。
ということは、簡単にできることではないですよね。
これは、実感としてわかりやすかったです。
外的事物の上に放散してしまっている心の光線を戻すには、すべての放棄を行い、ひたすらブラフマンを思うこと。
と、ここでもまたブラフマンを想いなさいと書かれています。
やり方として
オームに祈り、心を込めてオームを唱え、二十四時間続く宇宙の意識との一体感を味わって欲しい。これこそ最高の贈り物だ。
と、書かれています。
オームは自在神をお唱えしています。
自在神もブラフマン同様、姿も形もありません、更に時間と空間に縛られていません。
なので、オームとお唱えするといつでもそばに来てくださいますが、ただ見守っているだけの存在で、努力するのは私たちです。
この考えがとても好きです。
まだ、最高の贈り物が届いていないので、更に努力を続けなくてはいけません。
第十二章 知覚の理論
【心の二つの部分】
人は考え、そして理解する。考えることなしに知ることはない。考えた上でのみ理解する。
こんなふうに考えたこともなかったけれど、言われてみたらその通りで
『うわの空だったから、見えなかった。うわの空だったから、聞こえなかった』という会話をよく耳にするが、これは器官としての目や耳のせいではなく、明らかに心で見、心で聞いている証拠である。心がそこになければ見えも聞こえもしないことを証明している。
この例えもよくわかる。
前に江戸時代の黒船来航の時に、黒船が見えなかった人がいたと聞いたことがある。
見たこともないものは、ないものと判断してしまうそうだ。
真剣にみていた人だけが見れたのかもしれない。
心は二つの部分に分かれる。思考の部分と知覚の部分である。思考の部分は簡単に止められるが、知覚の部分の働きを止めるのは非常にむずかしい。
これも感覚器官の働きを止めることの難しさが書かれている。
対象を外に見るのは、各個人の心にほかならない。同じものを望遠鏡で見ると、違って見える。同様に、心でじかに物を見ることができれば、違った光景に映ることだろう。
日々の生活の中でも、知らず知らず自分でフィルターをかけてものを見ているのだと思う。疲れている時、良いことがあった時、嫌なことがあった時、同じものでも見え方が違っているんだろうと思う。
【思考はいつでも止められる】
大宇宙の根源としてのブラフマンは、全く異なった見方をする。ブラフマンはすべてを空像(ホログラフ)と見る。
この世はマーヤ(幻)というのがヴェーダーンタの考え方です。ホログラフはマーヤのことを言っていると考えて読み進めてみました。
すべての現象は、ブラフマンの内に起こっている動きと波動以外の何物でもないと見なす。人間の場合を例にとると、あなたが心の中で、「戦争が勃発して死者が多数出ている」情景を想像するのと同じことである。現実の戦争も死者もそこには存在せず、単に心の中での出来事である。この場合あなたは自分の想像を自分の意志でいつでも止めることができる。ブラフマンは現世をこれと同様に観ている。
これを
「戦争が勃発して死者が多数出ている」
をマーヤだと考えてみたら納得できる。
心は悲しいけれど、マーヤだと思えば悲しくない。
ヴェーダーンタは悲しみは否定していないけれど、根源的な原因は最初にでてきた「無知」だと考えるので、「本当に悲しいのは自分なのか?」という問いを自分にしていく。
そして、ネーティネーティアートマンというやり方を使っていきます。
「悲しいのは本当に自分ではない」
それを繰り返さないと本当の自分は見えてこない。
何かを付け足すのではなく、ひとつひとつ剥がしていくような作業を続けます。
それを続けていくと最後に残るのがブラフマンだと言われています。
第十二章 知覚の理論はまだ続くので次回が楽しみです。
最後に
長文にお付き合いくださってありがとうございます。
サット・サンガの前に予習してサクサク読む。
サット・サンガでみんなと一緒にゆっくりと読む。
今月のまとめをするためにもう一度じっくりと読む。
この会に参加することで同じ部分を3回読むことになったり、みさきちゃんのように、気になった部分をさらに深掘りしてみたり。
とってもオタクな集団ですが、それが楽しくてみんな集っているのだと思います。
ひとりで読むのが苦手な方、じっくり読みたい方、もう既に読んだことのある本だけれど、みんなの意見を聞きたい方・・・などなど、ぜひご参加くださいね。
Yoga Bija
加藤